異議申立をする価値または沈黙の価値
2015年5月12日クローズアップ現代の続きです。日系人は戦争中、敵性外国人ということで強制収容所に入れられましたが、この差別について世代によって2つの異なる態度があったそうです。
2世は自分の子供たちがアメリカ社会で自分がうけたような差別をうけさせないために過去をあえて蒸し返すことはなく、ほとんど触れなかったそうです。
これに対して戦争を知らない3世たちはこれはおかしいと運動しました。3世たちは、単に日系人に対する差別という視点ではなく、より普遍的な人権の文脈で日系人の差別を問題にしたとのことです。そして、時のレーガン政権に補償を認めさせました。この経験があったので、9:11テロ事件の時、イスラム系アメリカ人を強制収容しようという話があったときに、戦中の日系人強制収容と同じではないかといって反対してイスラム系アメリカ人の強制収容は実現しませんでした。
これだけのことを聞くと異議申し立てをした3世に勇気があり沈黙を守った2世はおとなしすぎたとも考えらます。
しかし、そうとばかりはいえないように思います。
2世が自分の子供たちがアメリカ社会で自分がうけたような差別をうけさせないために過去を蒸し返さなかったという考えも十分説得的です。仮に2世が3世に日系人がアメリカ社会から差別されてきたことを強調しつづけてきたとしたならば、3世はアメリカ社会の適合せず異質な存在でありつづけたのかもしれません。軽々にいえないのですが、現在のアラブ系アメリカ人のアメリカ本国での軋轢、アラブ系ヨーロッパ人のヨーロッパ内部での軋轢をみると、人種統合の困難さを思うのですが、日系人は2世たちの見えない努力で乗り越えてきたのだと思います。3世たちがアメリカ社会に適合していたからこそ、普遍的な立場で日系人の差別を問題にできたと思います。
それらの意味でも、沈黙を守った2世たちに畏敬の念を覚えます。そして、異常なまでの死傷率で勇猛果敢に戦った日系人兵士の実績は、声高に語らずとも行動で日系人の存在を高からしめたのでしょう。沈黙することの重みを思います(山森)。