死角を突かれたことまたは新聞記事
新聞を読んでいて立て続けに相手の立場で考えることの重要性を考えさせる記事をみつけた。
一つは投書欄に、ワールドカップで日本を破ったコートジボアールのエース、ドロクバ選手が「我が国は、国内が民族や宗教の違いから、混乱と衝突が絶えません。でもたった一つ、全国民が一致団結するのがサッカーです。このW杯でいい成績を上げ、国民の期待にこたえたい」と語っていたことを紹介して、小声で祝福したいという藤井賢三氏の投書である(6月18日朝日朝刊)。
もう一つは、コミニティーソーシャルワーカーの勝部麗子氏が、ゴミ屋敷など「周りから困った人といわれている人は、その人自身が困っている人と考えてまず間違いない」指摘していることである(同朝刊)。
いずれも死角を突かれた思いがした。頭では相手の立場にたって考えなければならないことがわかっていても、考え付かなかった。
たとえば、投書の例で考えてみると、通常なら日本敗北残念と考え、過去のことは早く忘れて、次の試合のことを考えるといったことだろう。しかし、投書者はコートジボアールの状況を知り、コートジボアールの人にとってサッカーが如何に重要かを理解して、重要なサッカーでコートジボアールが勝ったことを、日本人であることを離れて喜び、しかも、自分の考えを公にする。おそらく投書者は日本が頑張れの大声援に違和感を感じているのではないだろうか。私自身が知らず知らずのうちに日本という枠で考えていたことを認識させられた。
また、2番目の困ったケースについても、通常なら➀困らされている周囲の人の視点で考え、問題人間を排斥することを考える。排除してめでたしめでたしである。しかし、これは問題人間の困難を解決することにならず、一時しのぎにすぎず、なお、依然として形を変えて、周囲に迷惑を掛け続ける可能性がある。
他方、➁周囲の人を困らせている人自身が困っている人であるという認識の元に、どうしたら周囲に迷惑をかけない人になれるのか、問題人間の立場で考えることは、より根本的な解決につながりやすいだろう。ただし、相当な我慢強さが要求されることであるし、また、一定割合であるが、問題人間の立場で考えても、なお依然として周囲に迷惑をかける人はいるだろう。途方もない辛抱強さが要求される。
それにしても、まず、このような視点をもてる人がいることが新鮮である。しかも、特に2番目のケースは口で言うのは易しいが実践するのは恐ろしく難しい。その力技を毎日やっている人が存在することに畏敬の念を覚える(山森)。