発想の転換または「憎しみを愛に~テロ被害者たち~」

2013-01-15

 また、また、面白い番組をみたので紹介します。同時多発テロなどのテロによって家族を亡くしたり、自分自身両足切断の重傷を負った人が、その悲しみ、怒りを乗り越えて、同じように傷ついた人のために活動する姿を描いたドキュメンタリーです。
NHKBSドキュメント13年1月14日原題:Love Hate Love 制作:KTF Films (アメリカ 2011年)

 例えば、テロで死んだ妹のために集まった寄付金をもとに、姉を中心とした家族が、インドで小児眼科治療の病院の資金を出します。病院は子どもの目の病気の治療のために大きな役割を果たします。病院は、病院の名前に妹の名前を付けてくれました。姉をはじめ家族は、これほど妹にふさわしい記念碑はないといって喜びます。
 テロで死んだり傷ついたりした人が、(長い葛藤の末だろうと思いますが)テロの犯人に対して憎しみをつのらせるだけでなく(憎むのは致し方ないのと思います)、自分と同じように苦しんだ人たちのためになにができるのか考えるということがすごいと思います。
 どうしてこんな力技ができるのでしょうか。
番組中、大きな悲しみでいっぱいの時に、何か建設的なことに振り向けたいという気持ちがそうさせているのだろうという旨の解説がありました。残された遺族のいたたまれない姿には、涙をさそいます。しかし、それが活動のエネルギーになるのでしょう。 
 個人的経験を語るならば、随分昔に以下のようなことがありました。交通事故の加害者の刑事事件の弁護をしたことがありました。被害者は老人で打ちどころが悪かったのか死亡してしまいました。裁判が終わった後に、加害者が伏して遺族に謝罪しました。被害者の息子は、逃げたら責めることができるけれど、逃げないで救命に尽くしてくれたのだから恨むことができないといってくれました。心なしか泣きそうな、しかし、真剣な顔つきでした。私がが遺族であったらそのようにいうことができただろうか、とても、そのようにはいえないと思ったので、その息子さんの力技が強く印象に残っています。
 テレビに戻り、個人的に特に感銘したのは、テロで両足を失った男の物語です。男は、自分と同じように両手両足切断といった傷を負った人に対して自分の経験を語りにいきます。
 なぜ、このようなことをするかというと、もし自分自身の経験に即して、自分が治療中に、義足で普通に生活している人間をみたらもっと直りが早かっただろうという自分自身の経験からきています。
 男は交通事故で両足を失った青年に淡々と「いらいらするだろう。長いこと泣いて暮らしてなにもできないと絶望したけど今こうしていきている~」といったことを語ります。両足を失った青年は黙って聞いています。そのそばで青年の両親が心配そうに聞いています。青年や家族にとって、両足を失った人間がやって来て、立ち直れることを、自らの体験で示してくれることは大きな励みになるでしょう。
 また、同じテロで死んだ遺族が、死者の最後について尋ねられ、自分の経験では苦しまなかったので苦しまなかったのではないかとこたえます。自分が苦しまなかったというのは嘘のようですが、この文脈なら致し方ないと思いました。

 ともすれば、愛していた人の死、もっと広く、挫折とか失敗・喪失などには大きな悲しみが伴います。しかし、膨大な悲しみのエネルギーを、発想を転換して、建設的な方向に生かすというのは素晴らしいです。もっとも、これは死刑廃止論議などみていると容易ならざることでしょう。テロ犠牲者の記念碑に書かれた犠牲者の名前を指でなぞる場面が胸を打ちます。しかし、多分、こちらのほうが死者は喜んでくれそうな気がします。遺族や生き残った人も心の折り合いがつくのであるならばですが、晴れやかにしているように思います。憎しみを愛に変えることは、容易ならざることであるけれど、可能であるし、可能にしなければならないと思いました。

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