功利主義的?社会貢献の理由

2014-08-08

 豊かな社会で人々が得る稼ぎの9割は社会資本のおかげであると経済学者ハーバード・サイモンはいったという(何日か前の日経新聞の書評)。なるほど、先進国でそこそこの生活をしている人は自分の努力もあっただろうが、実は、その多くを社会的資本に負っている。あるいは家族や地域のおかげである。いわれてみるとそうだ。偶然、社会的資本の恵まれていない国に生まれていたとしたら、いくら努力しても思うような結果を出せなかっただろう。あったとしてもものすごい低い確率でしか実現できない。私などは豊かな社会に生まれて、(豊かでなかったが)教育熱心な親に恵まれて、ようやくこの程度なのであるから、豊かな社会にうまれず、教育熱心な親がいなかった場合どんなにひどい状態におかれたのか想像するだけで寒々してくる。
 こうしてみると、社会的貢献の必要性を富が実質どのようにして生産されているのか観点から考えると納得しやすい。その人の富は形式的にはその人のものになっているが、実は、その人の個人の努力だけで得られているわけではない。時間的・空間的広く社会を背景となっているものが大部分だ。そうであるならば、実は個人が自由に処分できる富などは限られたものであるはずである。 この点、倫理的な観点で社会的貢献の必要性を説かれると、倫理的でない私などは出る幕がなくなってしまうような気がする。
 しかし、実際上、その人個人の努力で得た富は、その個人に残し、個人の努力以外のところから得られた富については、適切の社会的還元を考え、分配を考えるというのは合理的である。
社会貢献は倫理的にみて必要なのであるのでなく、事の本質上、社会還元は必然なのだ。帝国主義は倫理的にみて悪いという前に、利益にならないという石橋堪山の議論に通じると思う(山森)。                    

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