マホメッドアリの死または世論誘導
マホメット・アリがなくなったとき、実は一番驚いた事は彼に対する賞賛の嵐である。50年前、私が子供だったころ、彼の全盛期あった。その頃の彼は 強かったが悪名も高かった。強いが大口叩き、それどころか、歴史的に見ると彼よりも強い選手はいくらでもいる、ということであった。そのように彼に対する非難罵倒の印象が強く残っている。そうであるがゆえに亡くなったときの称賛は不思議に思った。
ようやくハフトンポストの記事(6月8日その他)を読み、何故、彼が尊敬されているのかようやくわかった。全盛期のボクサーがをベトナム戦争反対のために自分のキャリアに振ったのだ。それだけでなく反戦のために何百もの講演をしていたことを知った。戦争を終結させるにあたって彼の果たした役割は大きいと言ってよいだろう。彼は、何の罪もないベトナムの人たちに爆弾を落としたり、銃弾を浴びせかけたりすることはできない、といって、禁固5年の判決を受けた(のちに無罪)。遅ればせながら、彼の勇気ある行動に畏敬の念をいだく。
そこで再び思うのであるが、なぜ私は彼に対して悪い印象を持っているのかである。推測に過ぎないのであるが、世論に抗してしてベトナム戦争に反対していた頃の彼は様々なところで批判されていた。その名残ではないだろうか。その推測が正しければの話であるが私の彼に対する悪印象は反戦平和そして人種差別反対を唱える彼に対する当時の世論の反発から来てるのかもしれない。
しかし、それどころではない。私は、生意気なことをいう黒人ボクサーということで彼に対して差別意識をもってみていたのではないだろうか。当時の世論に触発されたものであったとしても、これに納得して、彼に対して嫌悪感をいだいたのではないか。だからこそ、彼に対する賞賛に対して違和感を感じるのだ。しかし、アメリカの世論はその後変わった(彼のプロモーターはアリが正しく我々が皆間違っていたのですとまでいう)。ところが、私はシーランカンスのように進歩せずそのままでいた。自分が実は差別する側にたっていたらしいということを認めるのは恐ろしい。自分のよってたつ立場が揺らいでしまうことを感じる。しかし、事実ならば認めていかなければならない(山森)。