ヘイトスピーチまたは元国際司法裁判所裁判官トーマス・バーゲンソール
ヘイトスピーチ(憎悪表現)についての報道を読み、何でこんなひどいことを平気でいえるのか、怒りを覚えた。同時に心に引っかかりを覚えた。ヘイトスピーチは醜いし、表現の自由を超えていると思う。しかし、なぜ、こんなひどいことをいえるのか、どうしたらこれを乗り越えることができるか考えてみる必要があるとも思った。
そのようなときに、元国際司法裁判所裁判官トーマス・バーゲンソールの記事を読んだ(朝日新聞2013年9月19日朝刊 自伝は「幸運な子」朝日出版)。彼はユダヤ人で、1934年チェコスロバキア生まれ強制収容所の生き残りである。
収容所から帰って戦後ゲッティンゲンで暮らした。バルコニーからドイツ人親子がよく散歩していた。彼は、バルコニーに機関銃を設置して、ドイツ人の家族を銃撃できたらと思ったという。ヘイトスピーチどころではない。
しかし、そのような復讐をしても父も祖父母も戻ってこないことに気づくまで長い時間がかかった。そして、ユダヤ人虐殺のような犯罪を防ぐためには、憎しみや暴力の悪循環をたたなければならないということを気づくためにはさらに時間がかかった。
彼は、事情でドイツの学校に通った。同僚の生徒たちには反ユダヤ主義は感じなかった。しかし、先生の中にはナチスを感じさせる人がいた。歴史の授業ではほとんど現代史は扱われなかった(現在は違う)。敗戦後のドイツの実状がわかって興味深い。
収容所で大変お世話になった人に探検家ナンセンの息子がいた。ナンセンは収容所時代のことを本に書き(彼も登場する)、ベストセラーになった。その本の収益がドイツ難民を援助することにあてられることに、彼は当初は不思議に思った。しかし、次第に、彼やナンセンのようにドイツ人のためにひどい苦労をした人々こそ、ドイツ難民の苦しさに共感することができるからであることが次第にわかってきた。そして、彼は、バルコニーに機関銃を設置してドイツ人を撃ち殺したいと思っていたことを恥ずかしいと考えるようになってきた。彼は戦後ドイツで暮らすことにより、毎日ドイツ人と接してドイツとドイツ人のことを考えざるを得なかった。そして、憎しみの気持ちや復讐したい気持ちを乗り越えることができた。
希有な例であり、ヘイトスピーチをしている人たちとは比べ物にならないかもしれない。しかし、憎しみの固まりだったユダヤ人少年が、長い年月をかけ、周囲の助けを借りて、自分もよく考えて、憎しみを超えていく過程に感銘する(山森)。