ゴジラまたは戦没者の視線

2014-07-07

 映画「ゴジラ」製作60周年記念ということで、テレビでゴジラ特集をやっている。7月8日午後9時からNHKBSプレミアムで初代「ゴジラ」を放映する。これは是非見たい番組である。理由は、評論家川本三郎の映画評論「ゴジラはなぜ暗いか」の衝撃が忘れがたいためである。
 川本はいう。ゴジラは単なる怪獣映画ではない。子供向けではない。大人向けの戦争映画である。ゴジラは昭和29年に作られた。戦争が終わってまだ9年しか経っていない。昭和29年はまたアメリカの水爆実験でマグロ船が放射能を浴びた第五福竜丸事件があった年でもある。ゴジラと戦争は根底において重なりあう。
 ゴジラの出現により逃げまどう人々の姿は、アメリカ軍の爆撃で10万人が殺された東京大空襲を思い出させる。
 また、映画の一場面に、ゴジラに追われて逃げる母と子供がでてくる。死を観念した母親は、小さな子供を抱きしめると「もうじきお父さまのそばに行くのよ」と語りかける。そのせりふから見てこの母親が戦争未亡人と考えて間違いない。ここにも戦争の影がみえるという。
 さらに、川本は、ゴジラは戦争で死んでいった者たちの象徴であるという。「ゴジラが海に消えていくところで流れる曲は、戦中派であるならば、「海ゆかば」を思い出すだろう。そしてこのとき、ゴジラは戦災映画、戦場映画である以上に第二次大戦で死んでいった死者、とりわけ海で死んでいった兵士たちへの鎮魂歌ではないかと思い当たる。海に消えていったゴジラは戦没兵士たちの象徴ではないか。ゆっくりと海に沈んでいくゴジラは、沈んでいく戦艦大和の姿さえ思い出させないか」。「生き残った戦中派はゴジラを作り一度死者たちにわびる必要があったのだ。それをやらないとすすむことができなかった」。
 ゴジラについてこんな見方があるのかと、読んだ時の衝撃が忘れられない。
 その後、ゴジラは人気を博し、次第に表情が和らぎ、正義の味方になっていく。ゴジラが戦没兵士たちの象徴であるとするならば、高度経済成長により復興する日本のことを戦没者たちはじっと見守ってくれていたのかもしれない。そうであるとするとわれわれはゴジラの奥にある視線を意識せざるを得ない。
 話は脱線するが、戦没者の視線から見ると、昨今の集団的自衛権を巡る議論はどのように映るのか。安部首相は、集団的自衛権を認めることにより、戦争に巻き込まれることがより少なくなるという。しかし、果たしてそうか。
 そこで思い出されるのは、安部首相の親戚である松岡洋右である。松岡は日独伊三国同盟を締結することによってアメリカを威嚇して牽制し、日中戦争を有利に終わらせようと考えた。しかし、事態は松岡の思惑に反し、牽制するどころか、かえってアメリカを刺激してしまい、石油輸出禁止等の措置を招き、日本は戦争に突入した。松岡だって、平和を大義名分として三国同盟を主張した。しかし、志と異なってしまった。後で松岡は、一生の不覚といって後悔したというが、遅すぎる。威嚇を伴う同盟政策の場合、相手方がどのように反応するのか、慎重に見定める必要があるように思う。
 安部首相の集団的自衛権の主張は、アメリカとの同盟を強化することにより、中国を牽制するものである。この政策は、中国を刺激する。今、中国と戦争になるとは思わないが、さらなる緊張要因になるだろう。他方、アメリカは、中国が自国の重要な貿易相手国であるから、(輸入は第1位、輸出は第3位)、口先ではともかく、中国との関係悪化を望むとは思えず、本気で日本を防衛するとは思えない。
 そうすると、集団的自衛権の主張は、一方で中国との関係を一層悪化させ、他方、さして自国の安全保障の強化には役立たないのではないか。
 安部首相は親戚である松岡洋右と同じように威嚇によって「平和」を実現するという発想があるように思う。しかし、威嚇を背景にした平和は相手方にとっては平和の名に値しないかもしれない。しかも、安倍首相の戦争についての歴史認識は、アメリカにおける従軍慰安婦意見広告の賛同者に名前を連ねるなど、戦前と断絶ではなく、連続性があるように思う。松岡と同じ轍を踏む可能性があるというのは言い過ぎだろうか(山森)。

「ゴジラはなぜ暗いか」は「今ひとたびの戦後日本映画」(岩波現代文庫)におさめられている。

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