アンネの日記または人のために命をかけた人々
NHK「100分で名著」でアンネの日記について取り上げている。アンネフランクの日記にまつわる諸事情について小川洋子が解説している。知っているつもりでいたが、知らないことだらけであることを知った。また、小川のアンネの日記にかける情熱に感銘した。
第1回目をみた限りのことであるが、印象に残るのは、アンネのこともさることながら、アンネ達を支援してくれた人々の存在である。アンネの父親の会社の従業員が命をかけて支援してくれていた。従業員は断ることもできただろう。しかし、自分の親しい人が目の前で困っているという現実があり、それにどう対処するか。これは普遍的で深刻な問題である。発見された場合の恐怖(実際に発見された)を考えると、自分がそのような状況に居合わせたら助けることができたか考え込んでしまう。
話は飛ぶが、ごく最近、イスラエルはガザ攻撃を続けている。ガザを本拠地とするハマスのロケット攻撃に対する報復というのが大義名分である。イスラエルの犠牲者がほとんど兵士であるのに対して、ガザは50倍くらいで大部分が民間人である。毎日毎日衛星放送をみていると居たたまれない映像が流れてくる。しかし、イスラエルの世論調査によれば、9割がガザ攻撃を支持しているという。
どれほど正確な情報が伝わっているのか不明であるが、概ねイスラエル人は、自国の生存のためにガザの民間人が累々と死んでいくことをやむなしとして肯定しているように思う。国際世論などというものはあてにはならず、最後に自分を守るものは自分だけであるという考え(それはユダヤ人にとって歴史の教訓なのだろう)を貫いているように思える。この恐ろしい教訓と皮肉をどう考えるのは措くとして、私が関心を持つのは非国民として強い批判をうけながらも自国の空爆を批判する10%の人々のことである。イスラエルの10%の人々はアンネを支援した人ほどには命の危険はないにせよ、圧倒的な愛国的な雰囲気の中で平和を叫ぶのは本当に勇気のいることであると思う。なぜ、かれらは反対する勇気をもちうるか。また、イスラエルの暴走をとめるためにどうしたら10%の声を拡大できるか。
話はまたナチスにもどるが、ナチスでありながらユダヤ人を助けた人たちの物語に「軍服を着た救済者たち」があるという。これによれば、「最終的に救済を決める動機は、教育や人格と生活様式の中で身についているもの」であるという(朝日新聞の保坂正康の書評)。
アンネを助けたり、イスラエルの空爆を批判したりする勇気があるかは、教育や人格と生活様式にあるというのは合理的なように思える。個人的な精神論ではないように思える。また、精神論だけだと偶然的で特定の個人に途方もない負担をかけさせてしまうと思う。アンネを助けた人々の教育や人格と生活様式がより一般化するならばナチスのユダヤ人迫害はなかった、少なくともだいぶ薄められたと思う(そもそも、ナチスの台頭はなかったかもしれない)。同じく、イスラエルの空爆を批判する人々の教育や人格・生活様式がイスラエルで一般化すれば、パレスチナ問題は緩和されるのではないか。そうすると教育の持つ意味の大きさを実感する(山森)。