事実追及の徹底またはNNNドキュメント南京事件Ⅱ

2018-05-21

 弁護士の仕事で重要なことは事実が何かであることを調査することである。これが難しい。困難に逢着し、めげてしまいそうになる。そのようなときに、NNNドキュメント『南京事件II』(2018年5月14日)を見る機会があった。
南京虐殺についてはあったという主張もあれば、なかったという主張もある。あっても少数であるという主張もある。抽象的にいっても意味がないので、これは1937年(昭和12年)12月16日・17日揚子江沿岸で1万5000人の捕虜殺害に関わったとされる会津若松歩兵第65聯隊の記録を検証する番組である。
 これを裏付ける従軍兵士の膨大な従軍記録(概算200)とインタビューがある。日本兵も食料に事欠く中、捕虜にはほとんど食事が与えられなかったという。1度目の銃殺があったとされる12月16日、捕虜たちは揚子江の近くの海軍倉庫まで連行された。テレビは虐殺の模様を従軍記録を基にしてCGで再現する。銃撃の後、本当に死んでいるかどうか銃剣で突き刺していくというくだりには鬼気迫るものがある。
 しかし、これには批判がある。65聯隊の最高責任者両角聯隊長は、大量の死者はだしたが、それは自衛発砲であるという主張である。すなわち、捕虜を解放する目的で連行したが、対岸から銃声が聞こえ、捕虜たちが暴動を起こしたため、やむを得ず自衛ために発砲したとの主張である。出典は福島民報の連載をまとめた「郷土部隊戦記」(1964年)で、事件当時の両角聯隊長の取材に基づいている。両角聯隊長が残したメモには12月17日に捕虜を解放したと記されているとのことである。
 しかし、NNN記者は、⓵両角聯隊長は、12月17日は南京入場式にいて、現場には不在であったことを確認する。⓶別の虐殺のあったとされる12月16日については触れていない。⓷両角聯隊長の次の地位にある第一大隊本部の田山大隊長を護衛をしていた上等兵の日記には、16日に2500名を殺したと記されていた。17日は今日も捕虜の仕末だと記されていたことを確認する。⓸現場にいた元兵士は、捕虜を解放しようなんて船もないしに不可能であるという。⓹メモの戦後に書かれたものであることがわかる。
 さらに、NNN記者は記事を書いた記者を探し出す。56年前に書いた阿部記者(85歳 当時29歳)を探し出し、取材の模様を確認する。両角聯隊長は殺せという命令であったが、自分は解放しようとしたと主張したかったようである。しかし、⓺記事を書いた記者は虐殺があったことだけは認めて、謙虚に反省しながら進だほうがいいということであった。この執念の取材に感心する。これをみていると、自分自身が抱えている事実探求の課題も刺激を受ける。
 ところで、最近、認識の方法について、実証主義は旗色が悪い。認識の限界について語られる。しかし、実務家は事実に徹底的にこだわるべきであろう。その上での限界をどうするかの話であるように思える(山森)。
以下、番組の紹介である。
2018年5月13日(日) 24:55【拡大枠】
南京事件Ⅱ

かつて日本が行った日中戦争や太平洋戦争。残された兵士のインタビューや一次資料を分析、さらに再現CGで知られる事のなかった戦場の全貌に迫る。政府の公式記録は、焼却されるなどして多くが失われた。消し去られた事実の重みの検証を試みるとともに現代に警鐘を鳴らす。
ナレーター/湯浅真由美 制作/日本テレビ 放送枠/55分
再放送
5月20日(日)11:00~ BS日テレ
5月20日(日)5:00~/24:00~ CS「日テレNEWS24」

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