ヘイトスピーチまたはエミールのこと
神奈川新聞がヘイトスピーチについて特集している(11月23・24日)。その中でヘイトスピーチをするデモ参加者について「皆、ものすごく気持ち良さそうにヘイトスピーチを連呼していた。まるで、それぞれが「一人カラオケ」をしているように~」。~「死ね」「出て行け」という言葉の刃は在日コリアンの胸に突き刺さっていたはずである」というくだりに思わずぎくりとする。
ヘイトスピーチをすることが実は気持ちよいことである。人を罵倒し、人格を傷つけること実は胸がすーとすることなのである。自分自身の中にしまってある黒々とした暗部を急に表に見せつられたような気がして、ぞーとしてくる。ヘイトスピーチをする人間は、別世界のモンスターのような存在ではない。自分自身のなかにある分身のようなものかもしれない。
ところで、ヘイトスピーチを容認するような時代の雰囲気があるかもしれない。私の好きなテレビ番組「オイコノミヤ」で経済学者大竹文雄が世代別統計にもとづく世代論を展開している。就職氷河期を経験した現在の20代30代は、上の世代よりも世間に対して懐疑的で、人生は運次第で、努力は報われるものではないと考えているのではないかということである。世代間でそれほど考え方に差異があるのかにわかに信じがたいが、別に20代30代に限らず厳しい時代を生きていると他人を思いやる余裕がなくなり、自己のことで精一杯になるのはけだしやむをえないことなのかもしれない。現代がそのような時代であることが背景にあるかもしれない。
しかし、経験的事実としてそうであったとしても、それはあるべき姿ではない。仮に、ヘイトスピーチになにほどか人間の本性に根ざすところがあったとしても、これを認め、肯定することは好ましいことではない。消滅させることはできないかもしれないが、これを飼い慣らし最小限のものにしていかなければならない。そうしないと、市民社会がぎすぎすして荒涼たる世界になってしまう。そのようにしないのが、文明の力である。
そこで、思い出すのは、政治学者福田勧一が引用しているルソーのエミールである(情けない話しであるがエミール自体は読んだことがない)。ルソー曰く「情念は情念によってしか支配できない。情念の圧制と戦う為には、まさに情念の力にこそより頼まなくてはならない。~ 卑俗な情念に対抗するためには、子供にほんとうに深い喜び、内面のほんとうの充実を感じるような体験を与えることが大事である。心の中に深い甘美な感情を味わうことによってこそ、人間は卑俗な情念を越えていくことができる(「激動の世紀と人間の条件」34p岩波書店)。
随分昔読んだ文章だが、いま読んでも胸に沁みる。人間の感性は、仮に卑俗なものであっても、思考し意図することによってよりよいものに変えることができる。そのことに希望を感じる。
翻って、自分は内面の本当の充実を感じるような体験を積み重ねてきただろうか。じっと胸に手をあてる。なかなかこたえが見つからない。しかし、欠けるところがあるならば、いまからでも積み重ねていくしかない(山森)。