女子柔道の体罰問題または批判することは難しい。
女子柔道の体罰問題のテレビ番組をみていて、他人のことを批判するのは容易でも、自らに及ぶ問題について批判するのは難しいと思うことがあった。具体的には以下の通りである。
まず、新聞報道によれば、女子柔道の体罰問題について、調査委員会は①前監督・前コーチが個別的に行ったものと②全柔連が組織としておこなったものの2種類があることを指摘した。特に②について、ロンドンオリンピック五輪代表選手の発表会のときに事前通告なく候補選手を一同に集めて、落選した選手の表情などをテレビで中継させたということが批判された。新聞の解説によれば、ドラマティックな場面を映したいテレビ局の要請に対して全柔連が断らなかったらしい。選手はさらし者にされたような気持ちになったという。確かに、このようなことは美人コンテストなどでよく行われているが、美人コンテストでは事前に了解があるだろうし、選手選考とコンテストでは性格が異なるだろう。
ところで、この体罰問題について、TBSのワイドショーがとりあげて批判していた。前監督・前コーチの行為を具体的に指摘して、図にまで描いて批判した。当然、ロンドンオリンピックのテレビ報道についても言及されるかと思っていたが、私の記憶する限りではなかった。少なくとも、図示して批判するというようなことは絶対になかった。
これは一体どういうことか。寒々した気持ちになった。オリンピック選手の選考会のテレビ報道は、選手の人権無視の問題をよく表している問題である。個人でできる問題ではない、組織の体質に関わる問題である。個人の資質の問題よりよほど重大な問題であり、報道に値することである。
しかし、私が見ていた限り、報道されていない。少なくとも、報道において重視されていない。代わりに特定の個人が人でなしのように批判されていた。これは不均衡ではないか。なぜなのか?
この問題について言及することはテレビ局自身に累を及ぼすことであり、報道することを控えたとしたら重大である。全柔連とメディアは選手の人権を無視するという点で共犯関係にあるといえないか。そのようにまでは断定できないかもしれないが、とかく自らの利害関係に関わる問題について言及するのは難しい。これは何もテレビ局に限った問題ではない。