育鵬社公民教科書の問題点⑦ 「伝統」「文化」というけれど
「伝統と文化に関する豊富な教材」も,育鵬社公民教科書の売りですが,礼賛できるようなことではありません。
1 「伝統」はどこから来たか
①学習指導要領と「伝統」「文化」
中学校学習指導要領社会・公民的分野の「内容」には「文化の継承と創造の意義について多面的・多角的に考察し,表現すること」とあり,「内容の取扱い」として「『文化の継承と創造の意義』については,我が国の伝統と文化などを取り扱うこと。」とあることから,各社公民教科書とも,日本の伝統文化について記述しているということになります。
②教育基本法と「伝統」「文化」
学習指導要領にはここに限らず伝統と文化を尊重する旨の記述が多数みられますが,それは教育基本法第2条第5号に,
五 伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。
とあるからといえます。
③「伝統と文化を尊重」を導き出す論理
この「伝統と文化を尊重」は,2006年の教育基本法全部改正の際に入った文言で,旧教育基本法(1947年制定)にはありませんでした。
この第2条第5号のもととなった中央教育審議会(中教審)答申(2003年3月20日。「2具体的な改正の方向(1)前文及び教育の基本理念(新たに規定する理念)」)は次のとおりです。
「伝統と文化を尊重」を導き出す論理に注目してください(なお,丸数字は筆者によるものです。)。
「(日本の伝統・文化の尊重、郷土や国を愛する心と国際社会の一員としての意識の涵養)
①グローバル化が進展し、外国が身近な存在となる中で、我々は国際社会の一員であること、また、我々とは異なる伝統・文化を有する人々と共生していく必要があることが意識されるようになってきた。そのような中で、まず②自らの国や地域の伝統・文化について理解を深め、尊重し、日本人であることの自覚や、郷土や国を愛する心の涵養を図ることが重要である。さらに、③自らの国や地域を重んじるのと同様に他の国や地域の伝統・文化に対しても敬意を払い、国際社会の一員として他国から信頼される国を目指す意識を涵養することが重要である。
④なお、国を愛する心を大切にすることや我が国の伝統・文化を理解し尊重することが、国家至上主義的考え方や全体主義的なものになってはならないことは言うまでもない。」
②の伝統・文化の尊重は,①の「国際社会の一員」として「異なる伝統・文化を有する人々と共生していく必要」から導き出されているといえます。
これはどういうことか?
④国際協調主義から「伝統」「文化」を導く
旧教育基本法も,現教育基本法も,「日本国憲法の精神」にのっとり教育の基本を確立していることについては,全く変わりはありません(前文)。
したがって,日本国憲法にない価値観を教育の基本にすえることには問題があります。
ところが,日本国憲法に「伝統」の文字はありません。
「神国日本」といった合理的根拠なき信念が戦争を発生拡大していったことからすれば,合理的根拠なき信念の火種になるような文言が日本国憲法にないのは当然でしょう。
そこで,教育基本法に「伝統」をもちこむために用いられた理屈が,日本国憲法の国際協調主義(前文,第9条,第98条第2項)です。
すなわち,上記の①「国際社会の一員」として「我々とは異なる伝統・文化を有する人々と共生」するという国際協調主義を実現するには,②「自らの国や地域の伝統・文化について理解を深め、尊重」することを通して,③「他の国や地域の伝統・文化に対しても敬意を払」うことを学び「他国から信頼される」ことが重要である,という理屈です。(ちなみに,国旗国歌も同じような理屈で学習指導要領に入りました。)
⑤教育基本法第2条第5号の必然
教育基本法第2条第5号が「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する」と「他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」を組み合わせているのは,大いに意味があります。というか,「日本国憲法の精神」にのっとる限りそうせざるを得ないでしょう。
上記④の「国を愛する心を大切にすることや我が国の伝統・文化を理解し尊重することが、国家至上主義的考え方や全体主義的なものになってはならないことは言うまでもない。」というのは,国際協調主義からすれば当然に刺されるべき釘ですね。
⑥「伝統」は国際協調主義実現の枠から出られない
2020年6月17日付「教科書採択の『熱い夏』がやってきた!」で紹介した育鵬社教科書の代表執筆者伊藤隆氏のような立場の方からすれば,改正後教育基本法の「伝統」は,日本国憲法の「イデオロギー」を否定するための足掛かりをつくったというおつもりなのでしょう。
しかし,教育基本法が「日本国憲法の精神」(まさにイデオロギー)にのっとる以上,「伝統」も「愛国心」も国際協調主義実現という枠から出ることはできません。ましてや「伝統」をもって「日本国憲法の精神」を否定することはできません。
⑦帰結
したがって,公民教科書で日本の「伝統と文化」を取り扱う際には,他国の伝統と文化の尊重や国際協調主義から離れることはできません。よって,
(a)「日本すごい」的な他国に優越しているような取り扱いはなされるべきではありません。また,
(b)合理的根拠なき信念の火種を避ける意味からも,客観的な記述は心掛けられるべきでしょう。
2 育鵬社公民教科書の扱う伝統文化
(1)「フランス式庭園と日本庭園」
こうした観点から,育鵬社公民教科書の記述の一例として,「フランス式庭園と日本庭園」としてベルサイユ宮殿の庭園と龍安寺の石庭を対比させている囲み記事(21頁)を取り上げてみましょう。
①いずれも一つの様式
ベルサイユ宮殿に代表される庭園は「フランス式庭園」と呼ばれていますが,これは庭園の一様式であり,フランスの庭園がことごとく「フランス式庭園」で「人工的な美しさを追求」しているわけではありません(例 マリー=アントワネットのプチ-トリアノン。以上Hirokoさんの「フランスの庭から」を参考。)。
日本庭園も「自然に似せた景色」をつくり出しているものばかりではなく,刈り込みを多用した庭園や,市松模様を取り入れた東福寺方丈のような庭園も目にします。そもそも,龍安寺の枯山水自体,「自然に似せた景色」ではなく自然ないし宇宙を抽象化した「人工」ではないでしょうか。
それはともかくとして,一様式の比較であるはずなのに,これをもってフランスと日本の自然観の差異にまで直結してよいのか,私には疑問がありますし,上記(b)の観点からも問題だと思います。
②「自然を支配」
育鵬社はフランス式庭園について「自然を支配して,人工的な美しさを追求しているといえます。」との評価を加える一方で,日本庭園に「自然と対立するのではなく,人間は自然の一部であるという日本人の自然観を表しています。」との評価を加えています。
50年前ならともかく,現代社会において「自然を支配」ということばは否定的な意味合いがあるものと理解されるのではないでしょうか。(a)の観点からも問題だと思います。
③わが国独自?
育鵬社は枯山水を「わが国独自の庭園形式」としています。しかし,枯山水の定義次第かもしれませんが,枯山水の源流は日本独自のものとはいえないようです(外村中氏「『作庭記 』にいう枯山水の源流」)。
「わが国で発達した」ならともかく,上記(b)の観点からは疑問です。
(2)その他問題のある記述例
上記の例に限らず,育鵬社の文化関連の記述は,上記(a)(b)の観点から問題ある記述が目立ちます。
①「アニメから科学技術にいたるまで」
「現在,アニメから科学技術にいたるまで,新しい文化を創造して世界に発信し,活躍している日本人がたくさんいます。彼らの多くは日本の伝統文化や精神を理解し,そこからはぐくんだ活動の成果としての個性が,世界で認められています。」(23頁)
日本の伝統文化を世界に発信している方々がいらっしゃることは理解しますが,「アニメから科学技術」を世界に発信している方々の「多くは日本の伝統文化や精神を理解」しておられるかどうか,「そこからはぐくんだ活動の成果としての個性が,世界で認められてい」るのか,(b)の観点からは疑問です。
②「庶民も担い手」
「日本では,芸術は一部の特権階級だけのものではなく,古くからの庶民も担い手となっています。」(19頁)
「日本では」といいますが,世界ではどうなのでしょうか。芸術をもたない庶民というのも想像しがたいところです。(a)の観点からは問題だと思います。
③宮中歌会始
「短歌は,日本のあらゆる伝統文化の中心をなすものの一つといわれていますが,長い歴史を有する宮中の歌会始は,明治と戦後の改革によって世界に類のない国民参加の文化行事となりました。」(23頁)
この文章は宮内庁のホームページ「歌会始」の文章に由来すると思われます。
https://www.kunaicho.go.jp/culture/utakai/utakai.html
このうち,「日本のあらゆる伝統文化の中心をなすものの一つ」との記述についてみると,「日本のあらゆる伝統文化の中心」と評価されるものが存在することが前提となるわけですが,そのようなものは存在するのでしょうか。(b)の観点からは疑問です。
また「世界に類のない国民参加の文化行事」との記述についてみると,国民が参加する文化行事自体は世界各地にみられるものであり,もしも類がないとするならば,王族の文化行事に一般国民が参加するということに過ぎないわけで,(a)(b)の観点から問題だと思います。
3 海外からの影響
他社公民教科書は,日本の伝統文化を論ずるに際し,海外の文化を取り入れていることを真正面から記述しています。(例 日本文芸出版20頁「日本の文化は外国との交流と独自の発展を繰り返してかたちづくられてきました。」)
これに対し育鵬社20頁は,たしかに「日本文化の重層性」は認めるものの,外国文化の影響といった一般的な書き方はせず,仏教,儒教,漢字,ローマ字と個別の事項を記述した上で,「すべてをそのまま受け入れたわけではなく,選びながら受け入れ」などと影響を限定的にする方向の記述もみられます。
また育鵬社は「日本には6世紀に創業された寺社建築の会社」として現存する日本最古の企業という金剛組を紹介(21頁本文及び囲み記事。上記写真参照)しますが,金剛組初代金剛重光が百済から招かれた工匠であることにはふれていません。大陸からの影響という日本文化の特質を示す好例であるはずなのに。
その一方育鵬社は,日本独自の要素と評される「自然を信仰」「神道」を日本文化の土台として重視しています。
結局,育鵬社は,海外からの影響を限定的に記述する一方で,日本文化の独創性を強調していることになると思いますが,いかがなものでしょうか。
4 バランスの欠如
(1)「伝統」「文化」は公民学習の柱ではない
そもそも,「伝統」と「文化」は公民学習の中では柱ではありません。
学習指導要領でも歴史的分野の「目標」には「伝統」「文化」があり,地理的分野の「目標」には「文化」がありますが,公民的分野の「目標」にはいずれもありません。
中学教育は高校入試のためにあるわけではないことは勿論ではあるけれども,旺文社「全国高校入試問題正解2021受験用」には「入試によく出る」用語集が掲載されているところ,公民的分野の全36語中,「伝統」「文化」に関するものは一つも取り上げられていません。(入試問題をみる限り,私も同感です。)
(2)212頁中10頁
それにもかかわらず,育鵬社教科書は巻末法令集を除く本文212頁中,「文化」で10頁(うち2頁は210,211頁の写真),そのうち日本の「伝統文化」に少なくみても6頁を割いています。
他社の巻末法令集を除く本文は,東京書籍が221頁,教育出版が235頁,帝国書院が211頁,日本文教出版221頁であるところ,そのうち「文化」はいずれも6頁にとどまります。
ただでさえ時間不足で内容が多岐にわたる公民的分野において,歴史や地理でも扱う「伝統」「文化」に212頁中10頁を割くのは,バランスを欠くものといわざるをえません。
ましてや,他のところで記述が不足しているなら,なおさらです。
(自由法曹団意見書別冊入試問題参照)https://www.jlaf.jp/04iken/2020/0708_604.html
5 まとめ
学習指導要領の「内容」にある以上,公民的分野の教科書でも「伝統」「文化」を扱うことにはなりますが,それは国際協調主義の一環として,少なくとも国際協調主義と調和可能な範囲で扱うべきであり,独創性を強調するとか他国と比較して優越するかのような扱いや客観性を欠く表現は避けるべきです。
教科書採択の観点として,「伝統」を挙げる自治体もありますが,そもそも何故に公民教科書の採択基準でことさらに「伝統」が挙がってくるのか根拠不明な上,国際協調主義そっちのけで「伝統」を観点に取り上げることは不自然です。
その点を措くとしても,「過ぎたるは猶及ばざるが如し」であってバランスを失うほどの分量に至ったものに高評価を加えるのは合理的判断ではありませんし,ましてや問題のある表現が山のようにあるのでは高評価の余地はありません。
育鵬社公民教科書について「伝統」「文化」に関する記述が充実しているとして高評価を行うことはできません。(小池)