育鵬社公民教科書の問題点⑥ 教科書としての魅力は

2020-07-11

育鵬社は,今回採択版の公民教科書の「編修の基本方針」の冒頭に「『他人事』が『自分事』になる編集で,生徒の学習意欲が確実に高まる」を掲げています。

つまり,育鵬社公民教科書の売りは,一見自分とは関係なさそうなことがらを,自分に引き付けて考えることができるような導入や課題学習を設定することで身近に感じさせ,意欲的な学習につなげることができる,というものなのでしょう。

育鵬社公民教科書は2015年,横浜,大阪,東大阪,藤沢といった大都市にて採択されたにもかかわらず,全体としては5.8%の採択にとどまり,今回採択対象となっている5社の中ではシェアは最低です。育鵬社はおそらく「保守」「伝統」重視だけでは限界があると考え,教科書としての魅力を高めようとしたのではないかと想像します。

しかし,その試みは,下記にみるとおり,残念なこととなっているように思います。

(1)「人工知能やロボットにとって代わられる可能性の高い職業」

育鵬社は「働くことの意義と労働環境の変化」(136頁)の項の導入部,冒頭の図で,何を意図してか,「人工知能やロボットにとって代わられる可能性の高い職業」として一般事務員,受付係,警備員,タクシー運転手,宅配便配達員,レジ係,「(可能性の)低い職業」として医師,雑誌編集者,教員,保育士,デザイナー,美容師と,具体的職業を挙げています。

たしかに,具体的な職業名が出てきますから,自分の将来の希望する職業はどうなるんだろう,などと関心を引き出すこと自体はできるのかもしれません。

しかしながら,「とって代わられる可能性の高い職業」に現についている保護者のいる生徒や保護者自身に対する配慮はあったのでしょうか。

図を見たとき当該の生徒が何を思うか,保護者と何を話すのか,教室でどのような言葉のやり取りがなされるのか,教員の失言・他生徒の揶揄など差別的な言動につながる可能性はないのか。

これらを検討しなかった(あるいは検討したが問題ないと判断した)という一点において既に育鵬社公民教科書は,採択してはならない教科書というべきです。

たしかに一般の書物や放送でロボット等に「とって代わられる可能性の高い職業」が扱われることもあるでしょうが,これらは①通常個人や家庭で接する,②見る見ないの自由がある,③信頼性も高いとは限らないという点で,精神的苦痛や差別的言動にはつながりにくいといえます。

これに対し,教科書は①学級集団の中で用いられる,②授業での使用義務がある,③検定を経て信頼性が高いものしてと扱われているという点で,精神的苦痛や差別的言動につながりやすく,しかも生徒に逃げる自由はなく,一般の書物・放送とは同列には置けません。

育鵬社公民教科書が採択され,「とって代わられる可能性の高い職業」と名指しされたことやこれに起因する差別的言動で傷つく生徒・保護者が出てからでは,手遅れです。

(2)問題のある課題設定

ア 漂流者が2つの王国から歓迎

育鵬社は,社会保障制度と財政の項の冒頭(158頁)において,漂流者が2つの王国から歓迎を受けるという想定でどちらの国がよいか考えさせています(高福祉高負担のB国と低福祉低負担のA国の比較ということでしょう。)。

この課題は育鵬社のデジタル教科書web体験版に取り上げられており,育鵬社は「『他人事』が『自分事』になる」の好例と考えているものと思われます。

しかしながら,この設例には問題があります。

①A国とB国ではそもそも国民所得に大差があります。

A国 人口100人,50人は年収900万円,50人は年収100万円

   したがって,A国の国民所得は900万円×50+100万円×50=5億円です

B国 人口100人,全員年収300万円

したがって,B国の国民所得は300万円×100=3億円です

②国民所得に差がある結果,国家の税収には大差がありません。

A国 税率30%

   したがって,A国の税収は5億円の30%=1億5000万円です

B国 税率60%

したがって,B国の税収は3億円の60%=1億8000万円です。

③A国で所得再分配をすればB国の水準を実現できそうです。

B国の税収1億8000万円でB国の国民100人に「高福祉」のサービスができるならば,A国国民のうち年収100万円の50人にB国同様のサービスを行うには単純計算で9000万円あれば足ります。

さらにA国の年収100万円の国民の税抜き収入(100万円の70%)70万円を,B国国民の税抜き収入(300万円の40%)120万円まで補填するのには,50万円×50人=2500万円で足ります。

 上記9000万円と2500万円の合計は1億1500万円となり,A国の税収1億5000万円より小さいことになります。

国民へのサービス以外に要する費用や物価の問題があるからここまで単純ではないでしょうが,A国ほどの国民所得があれば,A国の年収100万の国民に,B国同様の生活を保障することは,高税率を前提とせずとも可能と思われます。

④結局,この設例は,高福祉高負担と低福祉低負担を比較させているようで,実は国民所得の高いA国と低いB国を比較させていることになります。

「高収入の人が多いからA国の方がよい」と判断する生徒が,ある意味「正解」ということになり,「正解」のある課題設定となってしまっています。

高福祉高負担(北欧等の政策)より低福祉低負担(アメリカ等の政策)の方がよいと誘導することになる可能性もあり,教科書としては問題のある設例です。

 イ ライフプランシミュレーション

 (ア)多様性への配慮なし

上記第2章8(家族・ジェンダー)でふれた「人生をデザインしよう-シミュレーション」(162頁)の課題も,育鵬社のデジタル教科書web体験版に取り上げられていますので,育鵬社としてはセールスポイントなのでしょう。

ここでは,自分の人生設計をグラフに書き込むようになっていますが,その中で,結婚については,「いつ頃,結婚する?」,出産については「子どもはいつ頃,何人欲しい」と設問がされています。当然に結婚して子供を産むことを前提としており,多様性を認める社会と相容れない記述になっています。

家族形態に多様性が認められるべき現代において,配偶者の有無,子どもの有無については選択肢が与えられるべきです。(この点,同種のシミュレーションを有する帝国書院教科書(133頁)は,「1)結婚をしたいか,したくないか,2)子どもは欲しいか,欲しくないか。欲しい場合は何人欲しいか。」と,選択肢が与えられています。)

 (イ)基本的支出を外して何の意味?

しかも,育鵬社のシミュレーションは,稼働期間中の基本的な支出は住居費以外は考慮から外してしまったまま,結婚等ライフイベント時の費用や学費を書かせるといったもので,「この時はこのくらい特別なお金がいるのか」と確認するにとどまります。うがった見方をすれば,結婚して子どもを産むのは当たり前という刷り込み以上の意味は見いだせません。(帝国書院にも同様のシミュレーションがありますが,基本的収入支出はおさえています。)

 (ウ)紙の上でのシミュレーションには限界

web上には無料で使用できるライフプランシミュレーション(金融庁,松井証券など)が多数公開されています。当然ながら配偶者の有無も子どもの有無・その数も選択可能です。パソコンの設置された教室にて一人一台端末を使用させ,web上のライフプランシミュレーションを用いれば,様々な条件を変えることによって収支がどんどん変わることが分かり,より有益です。正社員と非正規労働者との現状の収入格差が生き方に影響するかなど,学習を深めることも容易です。育鵬社教科書のような紙の上の作業では,条件を変更しての考察には限界があります。

シミュレーションそのものはwebにゆだね,教科書は基本的生活費,賃金など考える材料を提供するという形がよいのではないかと思います。

 ウ もしも警察がなかったら

  育鵬社は,「財政とは」の項(150頁)で,「もしも日本に税金がなくて警察がなかったら,私たちの生活はどうなるでしょうか。」を話し合うこととしています。

  たしかに,「『他人事』が『自分事』になる」上で,考えやすいテーマかもしれません。

  しかしながら,福祉国家の対義語が警察国家といわれるように,国家の存在を肯定する以上は,最低限の機能として警察は認めることになるのが一般常識的なところでしょう(もしも「警察がなくても大丈夫」「ないほうがよい」と本気で議論させるつもりなら,何らかの資料が必要だと思います。)。

おそらく議論の深まりもないまま,「警察は必要」「税金は必要」という結論に至ってしまうことと思います。

もしも税金の役割について「『他人事』が『自分事』」として考えさせたいのであれば,財政の役割の項なのですから,端的に社会資本に税金を使うこと,たとえば図書館やスロープを題材にした方がよいと思います。

 エ 小括

 課題学習は生徒が問題を深く考える上で重要な役割をもっており,育鵬社もそれを意識した上で「『他人事』が『自分事』になる」よう課題設定をし,セールスポイントとしたものと思われます。

しかしながら,上記(1)の「とって代わられる可能性の高い職業」という導入部を含め,「『他人事』が『自分事』になる」ことを目指した育鵬社の試みは,残念なことになっている部分が目立ちます。

その原因は,実際の授業で用いられたときに生徒がどのような反応をするかについての検討が一面的というか,杞憂であることを祈るものですが,盛り上がることが第一という発想があるのではないかと思われます。

育鵬社公民教科書を採択する積極的理由はありません。

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