原爆の理不尽または無知のヴェール
以前から不思議に思っていたことに、長崎に原爆が落ちた結果、浦上のカトリック信者が直撃を受けて大半の人が亡くなった事実があります(12000人中8500人が亡くなったといわれています)。キリスト教国のアメリカがこともあろうに、キリスト教信者を狙い撃ちしたというのは如何にも不可解でした。
ところが、テレビをみていたら、もともと小倉が標的になっており、雲がかかって落とすことができず2次的な目標であった長崎市中心部に行き、そこも雲がかかっていて投下できず、たまたま浦上地区のところの雲が晴れたのでそこに投下したということを知りました。
ようやく合点がいったのですが、それはあまりにも偶然的で不運な話であると思いました。全く偶然的な事実でこんな目に合うなんて理不尽な話です。たまたま雲がかかっていたか否かで天と地ともいえる差ができてしまいました。
それで思い出したのですが、人種、民族、地理的な条件等自分ではどうすることもできない条件によって不利益を受けるのはおよそ合理的でなく正義に反するので、そのような偶然的な事態で不利益をうけるのは不都合なので、そのような不都合が生じない正義論を考えるべきだという議論です(無知のヴェール論)。ここに、無知のヴェールとは、法哲学者ロールズが、自身の正義論を組み立てる前提として、人間は自分自身の位置や立場について全くわからない状態にいる、出身・背景、家族関係、社会的な位置、財産の状態などについては知らないという仮定をしたことです。
いささか人工的な議論ですが、本件のようなケースを考えてみるとわからなくはありません。いつ自分の身にも原爆が投下されるかもしれないと考えると原爆投下を正当化する気にはなれないでしょう。いつ自分が被ばく者になるのかわからないとすると、被爆者を差別しないような社会のルールをつくることとなるでしょう。
番組に戻ると、被差別部落出身で、しかも被曝して、差別の中で苦闘しながら戦った母親の話がでてきます。被差別部落にうまれたということ、被曝したということ、いずれも当人でもはどうしようもないことでしょう。これを理由に不利益を受けるのはのは理不尽です。しかし、そんな理不尽な人生と戦った母親のことを尊敬する息子の言葉が印象に残りました(山森)。
以下8月12日の番組の紹介文です。
ETV特集「原爆と沈黙~長崎浦上の受難~」
原爆が投下された長崎浦上地区。カトリック信者と被差別部落の人々は、戦後ながく被爆体験を黙して語らなかった。差別と闘い、やがて体験を語り始めた浦上の戦後を描く。
72年前の8月9日、原子爆弾が投下された長崎・浦上地区。古くから弾圧を受けてきたカトリック信者、そして被差別部落の人々が暮らしていた。生き残った被爆者たちは、戦後長きにわたって自身の被爆体験を語らず、沈黙してきた。差別があったからだ。しかし、後世に自分たちの体験を伝えようと、近年、重い口を開き始めた。差別と闘いながら、生き抜いてきた長崎浦上の人々の戦後を描く。