「戦争で死ぬ、ということ」(島本慈子 岩波新書)またはいくつかのこと

2016-05-05

 横須賀美術館に行く機会があり、美術館のある観音崎公園を回った。予想以上に戦争の名残を感じさせるところであった。日露戦争のころにつかったという砲台跡がたくさんある。(みることはできなかったが)トーチカ跡もある。船員の戦没者碑がある。6万人が死んだという。ところで、もう少し先に野比海岸がある。特攻兵器人間魚雷伏龍の練習をしたという。「戦争で死ぬ、ということ」で島本が伏龍について取り上げている。このことについては、経験者の詳細な記録がある(http://shounen-hei.blogspot.jp/2010/05/blog-post_26.html 「少年兵兄弟の無念」 15歳で少年兵として陸軍特別幹部候補生に志願した私が、戦後65年経った今、その無念を綴ります)。特攻兵器はいずれもいやであるが、特に伏龍は嫌である。カミカゼは勇壮さを感じさせ、人の心を高揚させるところがなくはないが、伏龍はまったく、そのような要素がなくただひたすら暗いだけだ。使われる前に降伏したので実戦で使われることはなかったらしいが、使われたとしたら、この青々として美しい海に隠された歴史がもう一つ刻まれていたことだろう。
 次に、この本の中で一億玉砕には日本人全員が死ぬまで戦うぞという覚悟を見せつければ敵も犠牲を強いられることに嫌気がさし、有利なかたちで和平を結べるかもしれないという面があったことを知った(p26)。なるほど、これはゲームの理論でいうところのチキンゲームで、場合によっては効果的であったかもしれない。ただし、そのために犠牲にされる日本人はたまったものではない。しかも、アメリカがチキンゲームに屈しなかった場合は悲惨である。実際、アメリカは原子爆弾を使うことによって、一億玉砕戦法の上を行き、日本を屈服させた
 更に、戦争について考えることは、ついつい最近話題の自民党憲法改正論について考えることでもある。とりあえず、憲法前文についてついて考えてみると、自民党の改正案は日本の歴史と伝統について言及する事を強調している。私も、日本の歴史と伝統について言及することは否定しない。しかし、戦後の日本は戦前戦中の愚かな戦争を深く反省してもう二度とこのようなことをしない、無念の思いを抱きながら死んでいった人々のことを思い、二度とこのようなことはすまいと誓ったことにこそに戦後の日本のアイデンティティがあるように思えてならない。華々しい成功の歴史を誇ることばかりが歴史を語ることではない。敗北し泥まみれの状態からはい上がってきたことも歴史の一部であり、はい上がってきたことは誇るべきことであると思う。そのような意味で「政府の行為によって再び戦争が起こることのないようにするこを決意し」は必要な前文であるように思える。
 そんなことを連想させてくれる本である(山森)

以下は本の紹介文である
戦争はリアルに語られているだろうか? 「大量殺人」の実態と,そこから必然的に生み出される「人間の感情」が見失われてはいないか? 自らも戦後生まれである著者が,自らの感性だけを羅針盤として文献と証言の海を泳ぎ,若い読者にも通じる言葉で「戦争」の本質を伝えるノンフィクション.未来をひらく鍵がここにある!

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