イスラム国とイスラム教
人質にとり身代金を要求して殺すなどという略奪的なイスラム国とイスラム教はどのような関係にあるのだろうか。一方で欧米日本の見方はイスラム国の残酷性とイスラム教は何らかの関係があると感じているように思いえる。実は私自身も例外ではない。他方、イスラム教徒はイスラム国はイスラムではないという。どちらが正しいのか。
知識の乏しさをさておき、思い出すのは40年以上前に読んだ本多勝一のルポルタージュ「アラビア遊牧民」である。そこで砂漠の遊牧民ベトウインの非情の論理が紹介されている。本多のイヌイット(当時はカナダ・エスキモー)、ニューギニア高地人、アラビア遊牧民の極限の民族三部作はいずれもすばらしい。前二者については人は皆兄弟という感を強くするが、最後の「アラビア遊牧民」については人はこんなにも違うものかと驚嘆するやら恐ろしくなってくる。ここで本多は遊牧民ベドウインの略奪の論理を紹介している。例えば本の見出しは以下の通りである。親切で慎み深いベドウインの正体、テイクアンドテイク、親切の正体、サバクの掟等である。砂漠の厳しい環境で生き抜くため非情に生きなければならないという事情を理解しつつ、しかし、半ば怒りを込めて紹介している。
思うに、そのような厳しい非人情ともいえる世界にあってイスラム教は寛容を解いてきた宗教ではないだろうか。イスラム教の布教は成功し、中東は皆イスラム教徒である。しかし、時として、もともとのベドウイン的な素地が現れることがあるのではないか。その現れがイスラム国ではないか。
仮にそうであるとするとイスラム教対キリスト教といった宗教・文明の対立という図式ではなく、前近代対近代以降という対立の図式ではないだろうか。無知をさらけ出すようで恥ずかしいがそのように思えてならない(山森)。