不都合な史実または満蒙開拓平和記念館

2014-04-22

両親がともに大陸生まれの私にとって(父方の祖父は英語教師で父は青島生まれ、母方の祖父は満鉄の社員で母は大連生まれ)、旧満州はどうにも気になる地である。
再放送番組で長野県に満蒙開拓平和記念館ができたことを知った(http://www.manmoukinenkan.com/)。
ある程度知っているつもりであったが、まだまだわかっていなかった。
例えば、満豪開拓団を送り出す前提として、農家の収入が3分の1に激減している現実があった。開拓団を出すと補助金を出た。
普通の好々爺という感じの人が終戦直後の逃避行を語る。その内容に思わずぎょっとした。
子供の首を絞めて殺した。自分も死のうとして瀕死のところを中国人に助けられた
敵がくるので声を出さないように子供の首を締めて殺して土に埋めた。
本当の五族協和でやっていたら生き延びることができたかもしれない。しかし、逃避行で38名中生き延びたのは一人だけである。
不都合な真実から目を逸らさずに戦争の真実を語る人々の淡々とした態度に敬服する。ごく普通の人々である。その苦しみや痛みや葛藤を記憶にとどめたい(山森良一)。 
以下、番組の紹介である。
「刻印 不都合な史実を語り継ぐ 13年10月6日放送 SBC信越放送」
戦争体験のない人が国民の8割を超える時代、戦争への実感が持てない社会には、平和を脅かす不穏な言動が目立っている。今、戦争を知らない私たちが語り継ぐべき「戦争と平和」とは何か。
今年4月、長野県に開館した満蒙開拓平和記念館では、体験者の証言記録づくりに取り組んできた。証言は、戦争への自省や戒めだけではなく、現代の国や社会の在り方を問うものでもある。
証言者のひとり、松本市の宮川清治さん(93歳)は元教師で、戦争中、満蒙開拓青少年義勇軍に教え子を送り出した。10代半ばの少年を満州へ送ることに抵抗があったという宮川さんが、どのように国策にのみ込まれていったのか。
そして、終戦の年、ソ連の対日参戦による逃避行で、生徒のひとりが命を落とす。戦後、悔恨と自責の念に苛まれ、今もその死と向き合い続けていた。
不都合な史実に目を背けず、重い口を開く人たちの「最後の証言」をどう受け止めるのか。体験者が心の奥底に沈めてきた苦悩や葛藤を見つめる。

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