(3)「気にしすぎ」「この子も悪いところがある」
こうしたことを理由にして「いじめ」としての対応を怠ることは許されないといえます。
ア 個人の尊厳
法第1条は、
「この法律は、いじめが、いじめを受けた児童生徒の教育を受ける権利を著しく侵害し、その心身の健全な成長及び人格の形成に重大な影響を与えるのみならず、その生命又は身体に重大な危険を生じさせるおそれがあるものであることに鑑み、児童生徒の尊厳を保持するため、いじめの防止等(いじめの防止、いじめの早期発見及びいじめへの対処をいう。以下同じ。)のための対策に関し、基本理念を定め、国及び地方公共団体等の責務を明らかにし、並びにいじめの防止等のための対策に関する基本的な方針の策定について定めるとともに、いじめの防止等のための対策の基本となる事項を定めることにより、いじめの防止等のための対策を総合的かつ効果的に推進することを目的とする。」
としているところ、いじめ防止対策推進法の立法に関与した小西洋之参議院議員(以下単に「小西議員」という。)は著書「いじめ防止対策推進法の解説と具体策」(以下単に「小西著書」という。)29頁において、
「本法の目的条文において、日本国憲法の目的であり核心価値である『個人の尊厳の尊重』(第13条)を具体的に現す記否定が置かれたことは、この『児童生徒の尊厳の保持』が本法における全ての条文解釈や制度の運用解釈の基礎となることを明確に示すものとして、革新的な意義を有するものです。」
としています。
この「個人」の「尊重」(憲法第13条)ないし「個人の尊厳」(憲法第24条)の意味について、憲法学者の一般的な解釈としては、
「いわゆる個人主義の原理を表明したものである。」「個人主義とは、人間社会における価値の根源が個人にあるとし、何にもまさって個人を尊重しようとする原理をいう。ここで個人とは、人間一般とか、人間性とかいう抽象的な人間ではなくて、具体的な生きた一人一人の人間をいう。」「個人主義は、一方において、他人の犠牲において自己の利益を主張しようとする利己主義に反対し、他方において、『全体』のためと称して個人を犠牲にしようとする全体主義を否定し、すべての人間を自主的な人格として平等に尊重しようとする。」(宮沢俊義(芦部信義補訂)「コンメンタール日本国憲法」197頁)
「何よりもまず重要な点は、一人一人の人間が価値の源泉であるということでございます。言い換えれば、個人の尊重とは、一人一人の人間に存在する固有の意義があり生きる目的があるということを私たちが相互に承認をするのだということを意味しております。これに対して、物ですとか道具といったものは固有の存在意義を持ちません。道具はそれを用いる者の役に立つことに意味があるのであって、役に立たなくなったり気に入られなくなったりすれば捨て去られるという運命にあります。
しかし、人間はそうではありません。私たちは誰かのための単なる道具でも、ただ全体をうまく回すための歯車でもありません。私たちが互いを独自の存在の意義と生きる目的を持つ者として認め合うこと、これを私は人格の尊厳を承認するというふうに申しております。そして、このような人格である私たち一人一人は、同時に多様な存在でもあります。価値観、能力、性格、外観、皆異なっているわけです。この個性が一人一人の人間を形作っています。
したがって、一人一人に人格の尊厳を認めることは各人の個性を尊重することを意味します。この人格の尊厳と個性の尊重の両者を併せて日本国憲法は個人の尊重を定めたのだと私は解釈しております。」(平成25年5月29日参議院憲法審査会における京都大学大学院法学研究科教授土井真一参考人発言)
とされています。
イ 個人の尊厳と「いじめ」
この考えをいじめ問題にあてはめてみましょう。
児童生徒はその個性として多種多様な長所短所をもち、感受性も様々であり、更には様々な過ちをおかしてしまうこともあります。
そして、そうした個性をもつ一人一人の児童生徒をありのままに受け止め、一人一人の児童生徒が「心身の苦痛」から免れ、個性をもった人として尊重されることを、法第1条は求めているものと解釈できます。
そして、これに続く法第2条の定義はこうした個人の尊厳の原理を踏まえたものでしょう。
したがって、「他の児童生徒が行う心理的又は物理的な影響を与える行為」があった場合に、個々の児童生徒が「心身の苦痛」を訴えるのであれば、これをありのままに受け止め、まずは「いじめ」として対応すべきことになるはずです。
いい方を換えれば、「いじめられる側にも問題があるからいじめられても仕方ない」とか「そんなことを苦痛に感じるなんて気にしすぎである」ということで、「いじめ」としての対応を拒絶することは許されないというべきです。
こうした拒絶は「いじめ」の二次被害というべきであることを、「いじめ」防止対策に関わる者は自覚すべきでしょう。
もちろん「短所」「過ち」や物事の受け止め方について対象児童生徒に指導がなされることはありえます。
しかしながら、これは「いじめ」行為を許したり対応を怠ったりすることとは明確に区別されるべきです。