(2)「苦痛」の認定
ア 問題点
法の「いじめ」の定義中「苦痛を感じている」(以下単に「苦痛」とすることがあります。)ことは、本来は最重要の要件といえます。
しかしながら、行為の性質上当然に「苦痛を感じている」と考えられるものについては、敢えて「苦痛を感じている」ことにつきスペースを割き論ずるまでもないかもしれません。
その一方で、実際には「苦痛」は明確に了知できない場合(自死事案で遺書がない場合だけでなく、対象児童生徒本人聴取の際、本人の話からは苦痛があるのか不明確な場合…たとえば本人に「そのときどう感じた?」と聴いても明瞭な回答が返ってこないこともあります。)、いかなる認定を行うべきかが問題となります。
イ 考察
(ア) 区分
ここで便宜的に、「苦痛」を知る手がかりを、A:客観的要素(「行為」 の外形。例えば暴行とか悪口)とB:主観的要素(対象児童生徒の訴え)に区分した上で、教員が認識していたできごとについて、対象児童生徒の「苦痛」が①ABいずれからも明確なもの、②Aは明確だがBは不明確なもの、③Aは不明確だがBは明確なもの、④ABいずれからも不明確なものに、4分して考えてみましょう。
①をいじめとして認定すべきは当然です。
②は、「例えばいじめられていても、本人がそれを否定する場合が 多々あることを踏まえ、対象児童生徒の表情や様子をきめ細かく観察するなどして確認する必要がある。」との国の基本方針からすれば、「いじめ」として認定すべきでしょう。
保護者との関係がこじれている場合など、対象児童生徒の聴取ができない場合もありますが、そうした場合に「聴取ができないから苦痛が認定できず、いじめは認定できない」と主張する人もいますが、説得すべきです。
③は、法第2条の「いじめ」の定義からすれば、「いじめ」と認定すべきでしょう。
(イ)客観的にも主観的にも「苦痛」が明確ではないもの
それでは、④はいかに考えるべきでしょうか。
過去における旧来のいじめによる自死事件の調査報告書ないし判決を概観してみると、教員において①~③にあたる事実を了知しているとは限りません。
例えば、神奈川県湯河原町立中学校生徒による平成 25 年4月 10 日の自死事件についての、いじめに関する調査委員会平成 26 年3月2日付調査報告書
https://www.town.yugawara.kanagawa.jp/soshiki/29/1186.html
によれば、対象生徒在籍校の教員らが自死前に了知していたとされる事実は、「少し元気がなかったように感じる(H25.4.5)」、「家庭訪問の地図の裏側に担任への一言として「たまには僕たちの悩みを聞いてください」との記載があった(H25.4.9 )」、「自己紹介用の写真を撮る際、友だちと撮ってもよいということだったが、一人で撮った(H25.4.9)」、 「学級委員に立候補したが、なれなかった(H25.4.10)」と考えられ、教員らの認識としては④にとどまるようです。
神奈川県津久井町立中学校生徒による平成6年7月 15 日の自死事件についての東京高裁平成 14 年1月 31 日判決
https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/095/000095_hanrei.pdf
においても、担任の認識については 「生徒対生徒のその都度の個別的なトラブルであるとしか認識していなかった」と評価されており、担任の認識としては④にとどまるようです。
しかしながら、同判決も指摘するとおり、トラブル等が継続した場合には、対象児童生徒の精神的肉体的負担が累積増加し、重大な傷害、不登校等のほか自死のような重大な結果を招くおそれはあるというべきでしょう。 換言すれば、④であっても、これを「いじめ」として取り扱い、情報を集積共有することで、対象児童生徒の精神的肉体的負担を把握し、重大な結果を招くことを防ぐ必要があります。
すなわち、児童生徒の主訴からは「苦痛」が明確でなくとも、「いじめ」と認定し、少なくとも情報を集積共有することは必須でしょう。