(2)「いじめ」の正当化
今日において「いじめ」一般を是とする児童生徒教員はまず存在しないでしょう。
しかし、現実には「いじめ」が深刻化する例は後を絶ちません。
特に、以下のような弁解により「いじめ」ではないこととされ、あるいは「いじめ」が正当化されることによる場合が目立ちます。
ア おたがいにやり合っている
イ やられたからやり返しただけ
ウ 対象児童生徒(さらには対象児童保護者)にも悪いところがある
エ ちょっとしたことなのに対象児童生徒が気にしすぎている
オ 悪気はなく遊んでいるだけ
カ 対象児童が(やっても)いいと言っている
キ ただの仲違い
アは多対一の場合(下記(3))や、行動を始めるのが常に一方である場合、力に不均衡がある場合等、決して対等ではありません。
イについては、児童生徒間の行為で正当防衛が成立する場合は稀で、苦痛を与える行為の多くは違法であるし、そもそも正確に同じ量の苦痛を返すことなど不可能で多くは過剰です(下記(4))。
ウについては上記2(3)で述べたとおりであって、悪いところがない人はいない(そもそも長所と短所は常にうらはら)のであって、ことさらにこれを取り上げること自体恣意的なことが多いし、その点は措くとしてもこれをもって苦痛を与える行為が許容されてはならないはずです。
ましてや保護者は別人格である上、児童虐待事例をみるまでもなく常に適切な行動をとれるとは限らないのだから、その所為を理由に対応を怠ってはなりません(上記2(4))。
エ、オについては、受け止めは対象児童側の主観によるべきで、苦痛はないとか苦痛を与えることが許容されるとかを他人が判断すべきものではありません。
無論「いじめ」の実態により指導のあり方は学校の裁量に委ねられているけれども、苦痛の有無については、対象児童側の主観を出発点とすべきです。
一方で、「いじめ」がひどい場合には被害申告すら困難となりますので、gのような場合でも苦痛に値する行為がある場合には他人の判断にて介入する必要があります。
関係児童生徒による以上のような弁解を教員が許容してしまう場合もあります。
対象児童生徒側に克服すべき課題があると考えている場合には、教員自身がこうしたものの見方をしてしまいかねないことには注意が必要です。
対象児童生徒側に克服すべき課題があったとしても、それゆえに関係児童生徒が苦痛を与えることまで許容されるわけではないことは強調しておきます。
カについては、たとえ対象児童が(やっても)いいと言っている場合であっても、それが真意であることは稀でしょうし、対象児童が自発的におごっているようにみえても、それが心底望んでおごっているかというと、そうではないことが多いでしょう。
キについては、仲違いしてお互いに口をきかないということと、そのうち一方が一方を集団から排除しようとすることは、切り分けなければならないと思います(下記(5)ウ)。