戦後民主主義の息吹または憲法前文のこと

2017-03-01

 奈良県の学校で教育勅語を学ばされているという話を聞いて思い出したことがある。田舎にいる時、姉は中学校の宿題で日本国憲法前文を熱心に暗唱していた。私の姉は1953年生まれだから1967 年頃のことだ。

「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は〜」

 今あらためて憲法前文を読み返すとその格調の高さと理想主義に驚かされる。そして、戦争の傷跡を感じさせる。いささか情けないのであるが、新鮮な文章に感銘を受ける。福島県の田舎の中学校で暗唱させていたぐらいであるから、多分日本全国で似たようなことがおこなわれていたのではないだろうか。1967年といえば、戦争が終わって20年少し経過したばかりの頃である。教える側は仮に40歳として、戦争に行ったか行かなかったの頃の世代である。その世代にとって、日本国憲法は特別の意味があったのだろう。
 ところが、その憲法について改正論が盛んである。
 不可解な話であるが、思い当たることがある。いつだったか法哲学者の長尾龍一が、銃弾がビュンビュン飛び交うような状況のもとで生まれた分析哲学が戦後になると、言葉の遊びのようになってしまったといって嘆いていたことを思い出す。銃弾がビュンビュン飛び交うというのは多分ヴィットゲンシュタインの論理哲学論考綱要が第一次大戦中の最中に作られたことを指すと思う。生きるか死ぬかの世界では、情緒などでいうものは信じることが出来なかったのだろう。そして、1938年生まれの長尾自身が戦中戦後ハルピンで生死に関わる体験をしてきたため分析哲学に共鳴するところがあったのだろう。しかし、時代が変わり平和になるに従って、痛切な体験が抜け落ちてしまい抽象的な言葉のだけが残った。抽象的に平和といっても70年戦争をしていないのであるから、そのことについての痛切な思いは薄れていくだろう。
 確かに、具体的な経験が切り捨てられ、抽象化されるのは避けられない。しかし、我々の問題点は、戦争といった個人ではどうしようもないマクロの世界に目を奪われて、ミクロな日常生活における憲法をあまり考えてこなかったことにあるのではないか。どれほど憲法を日常生活に引き寄せて考えてきたのか、「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ」ことの意味を改めて考える(山森)。

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