痛みに耐えることまたは被爆マリア像

2013-08-12

長崎の原爆慰霊祭をテレビでみた。通り一遍のことは知っているつもりであったが、まだまだ知らないことが多くあることに気づいた。
爆心地の近く(500メートル)に位置した浦上天主堂では1万人の信者のうち7割が死亡したことはよく知られた事実である。
ところで、天主堂で被爆した木製のマリア像(いわゆる被爆マリア像)は現在祭壇にかざられている。有名なマリア像なので誰しも一度は見たことがあると思う。像の右頬は焼けて黒くなり、目は空洞になり、髪は黒く汚れている。不気味な感じで目を背けたくなる。
 しかし、目を背けてはいけないだろう。現実に対して目を背けたことになってしまう。マリア像は被爆者そのものであり、その悩み苦しみを代わって伝えてくれているように思える。例えば、爆心地から2・4キロくらいのところで被爆して生き残った信者が、マリア像のことを指して自分の身代わりになってくれたのではないかという。そうかもしれない。黒く汚れて不気味なマリア像は被爆者そのものであり、彼に代わって苦しみを甘受しているように思える。正確には彼に代わってではなくと彼と共に苦しんでいるというべきであろう。彼の苦しみはなくならないが、マリアがいることで、彼の苦しみは相当和らいだように思える。
ところで、もっと広く考えるならば、マリア像は広く人間の悩み苦しみを体現しているように思える。見る人は自分の悩み苦しみをそこに投影する。別にマリア像をみて自分の苦しみが消えるわけではないが、自分のことを理解して共感してくれる人がいることを知って彼の苦しみは随分と癒されるだろう。
 じっとマリア像をみる。不気味ではあるが、その空洞のまなざしは、人の心を射るものがあり、人間の悲哀を感じさせる。表情は、荒れた肌ととに年月の重さを感じさせ、私を忘れないでくれと訴えているようにも思える。時に忘れてしまいたくなるが、見なければならないと思う。また、見ることによって、救われると思う。
 話は飛ぶが、世情巷間、聖者に触れることで病気が治ったなどということが語られることがあるが、被爆マリア像のことを考えるとまんざら嘘でもないように思えてくる。別に病気は治らないが、聖者に触れることにより、随分と癒された気分になり、治ったと思うのではないか。マリア像をみていて病が治るとは思わないが、マリアとその背後にある膨大な苦しみを思うと、自分の悩みや苦しみが相対的に小さいものに思えてきて、幾分か気分が軽くなるように思える(山森)。

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