東日本大震災または自分が小さく思える

2013-03-10

震災から2周年を迎える。関連したテレビ番組が多い。いずれも秀作である。福島原発弁護団として、かながわ原発弁護団として、横浜弁護士会の被災者支援として福島へは数十回いっているので、被災者の状況について少しはわかっているつもりだったが、見終わった時の重たい衝撃は忘れがたい。自分は今まで何をしてきたのか、何を見てきたのかまた考え込んだ。そして、人々の深い悲しみ、困難に立ち向かう勇気、乗り越えてきた困難。番組に登場する人の閲してきた人生とに比べてなんと自分はなんと小さいことか。
印象に残った場面をいくつか紹介する。
(何が命をつないだのか。発掘記録・知られざる救出劇 以下いずれもNHK)
 地震で道路は寸断され三陸の海岸は陸の孤島になった。食料がこない。そんな中で、遠く静岡から食料を積んだ船がやってくる。なぜ、静岡の船が来たのか。伊勢湾台風の時、三重で仕事をしていた祖父が、三陸の人には世話になったと繰り返しいっていた。受けた厚意は返さなければならない。孫がそれを受け止めて船を出す。船員は半分以上がインドネシア人であるが、インド洋津波(2002年22万人が死んだ)で世界中の人に世話になったことを記憶していた。
 助けられた側の責任者が連絡のために船に乗ってきた。やつれた姿をみて船長は食事に誘った。しかし、浜の仲間が待っている。ここで食事をするわけにはいかないといって断った。その後続々と船がやってきた。
 地震で食料が不足した三陸でスーパーが一軒だけあいていた。何が何でも商品を持っていかなければならないと、地震後1時間でトラック派遣を決めた物流会社。
 石巻で津波で取り残された人々がいる。助けられなかった人に対してごめんなさいごめんなさいといいながら、不眠不休でレスキュー隊は500人を救出した。
 我々がやらなければだれがやるといって消防隊員は奮い立った。
 民生委員は56人死んだ。担当のお年寄りの安否を気遣って死んだ人が大部分らしい。消防隊員は200人死んだ。
忘れ去ってしまわない方がいい。
(大川小学校遺族たちの2年)
 妻、3人の子供を亡くした男は「何で生きいているのでしょうね」と他人事のようにいう。そうしないと耐えられないのだろう。
 悲しすぎるとそのことが表現できない。母親が津波で死んだということを受け入れることができず、絶えず、笑っている少女。
 末娘を失った中学校の先生は、にこやかに話している。しかし、話している最中に涙ぐむ。その節度ある態度が悲しみの深さがにじみ出る・
 被災してみんなが我慢している。だから辛いといえない。
 先生には恨みがないという子供を失った親の言葉を聞いて慰められる母親。母親の息子は先生で、息子の先生と生徒の大部分が津波で死んだ。
(復興を誓う 命のダンス)
 自分たちのダンスをみて、被災者にもう一度がんばってみる気になったといってくれた。そのようにいってくれたことが、ヤンキーあがりのダンサーの励みになった。励ますことが、また、自分自身の励ましにもなっていることはすばらしい。
(バリバラ 被災者の障害者達は今)。
 宮古市の仮設住宅にすむことになった障害者がいう。車いすの自分には仮設住宅に入れない。窓から入っている
 被災した知的障害者の女の子、従来からの環境を失い、仮設住宅に引きこもっている「自分はなんで生きているのだろう」という
 一人で店に入ることが怖い。過去に断られた経験がある。
そのことが心の傷になった。しかし、復興支援のために多くの障害者が支援に来てくれた。その人たちは、障害者である自分が好きだという人たちであった。従来自分のことが好きにならなかったが、それらの人たちに会えたことが励みになった。

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