もう一つの北朝鮮人権侵害問題、または、「忘れられた引き揚げ者」(nhk)

2013-12-15

12月10日から16日まで、北朝鮮人権侵害問題啓発週間である。主として拉致問題について話題にしている。これはこれで大切なことであろうが、より深刻な問題がある。忘れられた北朝鮮引き揚げ者問題である。これについてNHKが特集(12月14日)していた。物事の本質を貫く鋭い番組であると思うので紹介する。
 終戦直後、北朝鮮にいた20万人の日本人のうち3万5000人死んだ。
 その原因は被占領下の市民を保護しなかったソ連と居留民保護を放棄した日本政府にある。
 まず、占領して支配権をもっていたソビエトにとって、日本人は略奪の対象でしかなかった。ただ、略奪できるだけの略奪をしてしまうとどうするのか明確な占領政策がなかった。
 昭和21年1月アメリカは日本人の帰国をソ連に提案したが、拒否された。ソビエトにとってヨーロッパが主要な関心事出会って極東は二の次であった。また、費用の問題もあった。なお、アメリカは日本人を帰国させることに熱心であったが、それは日本人が中国朝鮮半島にいるのは戦略的にみて不適当であるという思惑からであった。実際、外国にいた朝鮮人が250万人帰国してくるという現実があった。思惑はどうであれ、結果として在留邦人にとってアメリカの政策はありがたいものであった。
昭和21年3月ソ連もクレムリンは民間人引き上げの意向を指示した。現地は、その役割(膨大な予算を必要とする)の押しつけ合い時間ばかりが過ぎた。
昭和21年はじめのころから38度線南で引き揚げがはじまったのに対して、結局、北朝鮮でソ連が引き揚げを開始したのは21年12月からである。
それでは、日本人は待っていられないので、21年4月ころから自主的に南下しはじめた。極めて困難な行程であった。インタビューに応じた人(当時11歳)は200キロを走破して38度線を超えてアメリカ軍のキャンプで保護されて日本に帰国した。3万人いた日本人が2万2000人になった。途中、赤ちゃんを捨てた母親もいたという。とても言葉で言い尽くせない困難があっただろう。
ところで、ソ連は労働のための帰国許可証をだしていた。このことからソ連は日本人の帰国を事実上黙認していたようである。労働のあてなどなかった。ソ連は日本人をもてあましていたのである。
結局、20万人が自力で引き揚げた。その過程で3万5000人が死んだという。
昭和21年12月からはじまったソ連による引き揚げはわずか8000人であった。
 しかし、さらに加えて問題なのはそれにより、日本人の引き上げは終了したことになったことである。外務省はどこまでも責任を放棄しているように思える。
 昭和31年時点で3000人が未帰還であった。確実にいると思われる人について北朝鮮に問い合わせた。しかし、29人中25人死亡不明という回答であった。1440人の未帰還者がいるという
なぜ、ソ連は北朝鮮の日本人を閉じこめたか。
韓国人学者の研究によれば、結局、ソ連に明確なプランがなかったというのが原因であるという。また、帰還費用を惜しんだためであるようである。引き上げの費用をソビエトはアメリカに負担させようとした。
 次に、ソ連もさることながら、日本政府が在外日本人保護の責任を放棄したことも大きな問題である。日本政府は在外日本人500万人が帰国する余裕はないとして、その地で同化していくべきとした。しかし、植民地化の過程で恨みをかっている日本人に同化の余地はなかった。実質的に日本政府は外地日本人を見捨てたのである。当時の日本の困窮ぶりを考えると一面わからないわけではないが、そのために在外日本人は犠牲になった。余りに大きな犠牲である。その意思決定過程を知りたいと思う。当時の外交の最高責任者は東郷茂徳である。
ところで、確かに、北朝鮮の拉致問題は問題である。しかし、これは、日本政府による責任放棄であり、その広がりといい、悲劇性といい、注意を喚起する必要性といい、より大きいように思う。しかも、この問題は、必然的に日本の棄民政策が明らかになってしまうので、日本政府は話題にしたくないだろう。況や啓発週間の話題には載らないだろう。しかし、事実は事実である。
それにしても、以下のエピソードは慄然とさせられる。北朝鮮の日本人について、ソ連は、3万人中1割くらいは死ぬだろうと予測して3000人分の墓を掘らされた。しかし、予想に反して冬の間に4人に1人(7500人)が亡くなった(山森)。

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